てぃーだブログ › クリスチャン・スイトピーの日記 2 › カルト化教会 › 旧ブログ記事 › 上辺だけの愛、偽りの愛、見せかけの愛

2009年02月17日

上辺だけの愛、偽りの愛、見せかけの愛

2009/2/17 20:27
「上辺だけの愛、偽りの愛、見せかけの愛」  信仰の虐待とマインドコントロール
 虐待的牧師は、よく「皆さんの事を愛しています。」と言っていました。
祈りの中でも「愛」という言葉をよく言っていました。
「『互いに愛し合いなさい。』、これがこの教会の土台の言葉です。」と言っていました。

厳しい事を言う時は、「あなたを愛しているから、言っているんですよ。」と言っていました。
私は、ずっとその言葉に騙されていました。ごまかされていました。
虐待的牧師が本当に愛の人だと本気で思い込んでいたのですから…。マインドコントロールって本当に恐ろしいと思います。

村上先生のブログ http://maranatha.exblog.jp/ の2月15日の「カリスマの暴走」という記事の中に、こんな文章があります。献金についてです。
 

指導者は、神の祝福を得るために収入の10分の1を神に捧げるように礼拝の中で度々強調します。
そして、10分の1を捧げない信者に対して、礼拝の中で名を伏せて「神のものを盗んでいる」と泥棒呼ばわりしています。

(中略)10分の1がそんなに重要な教えならば、律法の他の部分も守ったらよいでしょう。
食物規定(豚等の汚れた動物を食べるな)、土曜安息、割礼を守ること、動物の犠牲を捧げることも同様に守ったらよいでしょう。
10分の1だけを信者に強制するのは、教会運営を重視しした方法論です。重い教会税を神の名によって強制しています。

異邦人教会に使徒たちが10分の1を捧げるように強制しているでしょうか。1箇所もそのようなところはありません。
旧約からキリストの十字架の贖いを飛び越えて現代人に律法に属することを適用するのは問題です。
 

私は個人的に虐待的牧師から、「十1をしないのは、神のものを盗んでいる泥棒ですよ。」と言われました。これはマラキ書に書いてある言葉ですが、
聖書の全体から見て考えると、これだけ強調するのはおかしいし、虐待的牧師が言っている事は、聖書の言葉を使って、十1をするように強制しています。み言葉を使っている脅しだと思います。
虐待的牧師は全く聖書を知らなかったのです。
信徒を責めたり、否定したりするために、み言葉を利用していたのです。
これこそ、信仰の虐待です。

しかも私は、収入がいくらか、給料がいくらか、聞かれました。
「仕事ができなかったり、仕事がない人は仕方ないけど、あなたは仕事しているんでしょう。」
「十1をしたら、何倍にも祝福されます。『試してみよ』と書いてあるでしょう。
神様を試していいと書いてあるのは、ここだけなんですよ。
私は、あなたに祝福を得てほしいから、言っているんですよ。」

虐待的牧師の言葉を思い出し、こうして書いていて思うのは、虐待的牧師はいつも上からものを言っていたなぁということ。
謙遜さもないし、言葉の中に励ましも愛も感じられないということ。

この間、他のカルト化教会を脱会した友人に、「虐待的牧師から十1を強制され、その時、収入を聞かれたけど、牧師がそんな事言うの、おかしいよね。」と質問したら、「おかしい。」との答えでした。
正統派教会の友達にも聞いてみたら、「そんなの、普通はぜったいにしないよ。」との答え。

昨日、村上先生に電話して質問しました。
「それはプライバシーの侵害だ。」と言ってました。
「牧師は、普通、そんなこと、聞かないんですよね。」
「聞かないよ。」
「じゃあ、私は答える必要はなかったんですよね。」
「答える必要もないし、それよりも聞く必要もないでしょう。」

「私は皆さんを愛しています。」、「あなたのためにいつも祈ってますよ。」
それが虐待的牧師の口癖でした。
本当に愛しているのなら、あれほどの言い方で十1を強制するでしょうか?
圧力をかけるでしょうか?
泥棒呼ばわりするでしょうか?

カルト化教会では、聖書通読が競争のようになっていた時期がありました。
虐待的牧師は、聖書を読むようにとよく言ってました。
それだけなら問題はありませんが、註解書や信仰書を読むことは止められていて、
それよりも、聖研、祈祷会に来て、学ぶようにと言っていました。
集会に出席して勉強したら、聖書がわかるようになると言っていました。

礼拝だったか、祈祷解のときだったか、聖研のときだったかは忘れましたが、説教中に、通読ができていない人の名を呼んで、「1度でも通読したことありますか?」と聞いて答えさせていたことがありました。
当然その人は、「できていません。」と皆の前で答えます。
皆の前で通読できていないことを公表すること、答えさせることで圧力をかけていたんだなと思います。
これもいじめではないでしょうか?
こういうことをするのが「愛」なんでしょうか?
本当に祈っているなら、自分のしたこと、言ったことを思い起こし、悔い改めもできるでしょう。

「愛している」なら、なぜ、忠告した人を追い出したのでしょうか?
なぜ、サタン追い出しの祈りをしたのでしょう?
虐待的牧師の口癖の「愛」は、上辺だけの愛、偽りの愛、見せかけの愛だったのだと思います。



同じカテゴリー(カルト化教会)の記事
デマを流す牧師
デマを流す牧師(2016-05-06 19:30)

情報コントロール
情報コントロール(2009-03-04 21:28)


Posted by スイトピー at 20:27 │カルト化教会旧ブログ記事