2018年05月05日

カルト化被害者が教会へ行けない(行かない)理由

久しぶりの投稿です。
この間のセミナーの事を書こうと思ったのですが、内用が難しすぎて私には無理なのですみません。
今回は以前から書きたいと思っていた事について書いてみたいと思います。
 

カルト化教会を脱会して、神様は信じているけど、教会へは行きたくない、あるいは行けないという人はかなりいます。
私の場合はどうだったのかというと、2006年の秋にカルト化教会を脱会しましたが、その後3箇所の教会へ行ってみました。
でもどこもしっくり来なくて、それからしばらくはどこの教会にも行きませんでした。
それは説教がわかりづらいとか、教会の雰囲気が全体的に脱会したカルト化教会に似ていたとか(もしかしたらそこもカルト化教会だったのか、カルト化しかかっていたのかもしれないです)、
牧師が表面的には理解あるふりをしていたけど、裏ではカルト化牧師たちとも繋がっていて利害関係にあったとか、場所がわかりづらかったり、通うのが大変だったり…理由は色々でした。
しばらくして2年間ある教会に通いました。
牧師がカルト化被害者を受け入れ、理解しようとしてくれた事、そのために努力してくださって、配慮してくださって、色々教えてくださいました。
それで福音理解が少しは進み、カルト化教会の教えの誤りがかなりわかる事ができました。
その頃はまだまだカルト化教会で教え込まれていた事も残っていて混乱したり、後遺症で不安定な時期だったので、そんな私に説明するのは大変だったと思うけれど、先生は私の状態を理解しようとしながら、しんけんにそしてわかりやすく、心をこめて話をしてくださいました。
その後は星の子キリスト福音教会で5年間おせわになりました。
小河先生はカルト化被害者の側に立ち、カルト化問題に取り組んでくださいました。
教会に来た被害者を受け入れるだけでなく、被害者の会に毎回参加され、カルト化牧師を擁護している牧師や無関心な牧師たちに発言し、問題提起し続けてくださっていました。
被害者の相談に乗り、定期的に聖書勉強会もしてくださっていました。
それで私はだいぶ聖書を読めるようになったし、神様に対する不信感を克服できました。それだけでなく、人間不信もだいぶ克服できたと思います。
それは村上先生やカイロスの会、ぶどうの会のみんなのおかげでもあります。
星の子キリスト福音教会が2016年3月で閉鎖したので今はどこの教会にも行っていません。
そして今はどうなのかというと、カイロスの会やぶどうの会へは毎月参加しているし、少数だけどクリスチャンの友達もいます。
ぶどうの会での礼拝と聖書のお話を聞くのが楽しみです。
定期的に礼拝会行きたいし、聖書も学びたい。知りたい事は多いです。
しかし、今はどこの教会へも行っていません。
行けないのではなく、「教会へは行かない」と決めています。
理由は教会での人間関係に疲れたから。教会生活をする事に精神的負担と疲れを感じるから。もうこれ以上疲れて傷つきたくないから。
神様は信じているし、神様にはまったく不信感はないし、カルト後遺症からも回復して、不眠も極度の不安もなくなって、元気に過ごしているけど、
教会には失望しているし、何も期待できないと思ってるし、牧師やクリスチャンに対して不信感があります。
これはカルト化教会に対して、というより、正統的と言われている教会や牧師、クリスチャンに対してもです。
このような気持ちで、教会へは行かないと決めていたり、行きたくないと思っているカルト化教会脱会者は多いです。
この件で少し前に村上先生とメールやりとりしました。
以下はそのやりとりです。
このやりとりを読んで、カルト化教会を脱会してその後教会に行けない人、頑張って行ってはみたけど傷ついて「もう教会へは行かない」と決めている人、
教会と牧師とクリスチャンに失望している人、教会に行けない事で罪責感や不安や恐怖心を持っている人、(注1)、
教会で傷ついて行けなくなった事事態でもつらいのに、周囲のクリスチャンから「こういう時こそ神様見上げましょう。」「教会に行かないと。」と言われてさらにつらい思いをしている人、
そういう方たちにこのやりとりが考えの整理、悩みや迷いの応え、励ましや慰めになればいいなと思います。
そしてカルト化問題や被害者の事を知らない牧師やクリスチャン、無関心な牧師やクリスチャン、
「教会生活が信仰生活で、戻ることが優先で何よりも大切でしょ。」と頑なに思い込んでる人たち、そしてそれを人に勧め教えるのが「正しさ」と思ってる人たち、
そのような人たちが考え直すきっかけになってほしいと思っています。
そして教会のカルト化問題に心を痛め、被害者を支援したいと思ってくれている方々の参考になればよいと思います。
私と村上先生のやりとりは以下です。
 

 私  「カルト化教会脱会者で教会に行けなくなった人、行かないと決めた人、行こうとしてみたけど無理だった人は何が原因ですか」という問いに村上先生は「人間不信と疎外です。」と書いておられました。
私は「その『人間不信』はカルト牧師やカルト化信徒たちの裏切りや虐待もあったけど、その後正統的とされている教会の牧師やクリスチャンの無関心、
『赦しなさい』という2次被害、虐待牧師を庇う発言(注2)、被害を軽く見る発言(注3)、
傷ついて疲れて、弱って休息が必要な被害者に対して「神様を見上げましょう」、「祈っていたら大丈夫」、「いつまでも昔の事にこだわっているから。」などの無神経で無理解な発言。それが原因ではないでしょうか、と聞きました。
『そうです』と村上先生はおっしゃっていましたね。
 村上先生  そうです。
 私  そしてもう一つ、被害者が教会に行けないのは行きたくないのは、「疎外もあるとおっしゃっていましたね。「疎外」とは具体的にどんなことですか?
 村上先生  仲間はずれにすることです。
いろいろな理由を持って、交わりから外すことです。
いろいろなとは、献金、礼拝習慣、祈祷のことば、服装、考え方など。

 私  それともう一つ、私が気づいた事があります。
私がカルト化教会脱会後、出会ったクリスチャンがほとんどそうだったのですが、私が「1年以上教会には行っていない。信仰は持っているけど、教会には行きたくないから。」というと、
「今度こういう集会があるから参加しませんか」とか
「私の教会に来てください。」
「私の教会の交わりに入りませんか」という誘いをかならずされました。
「礼拝は大切でどこの教会でもいいから行った方がいいよ。」と言われた事もあります。
みんな信仰イコール教会に行っている事、礼拝や祈祷会に行く事、と思っているようです。
 村上先生   礼拝を教会の礼拝会と勘違いしている人が多すぎます。
信仰生活そのものが礼拝です。
 私  神様を信じているイコール教会生活をしている事。
そして教会に行って礼拝会に出て、兄弟姉妹の交わりをするのがゴール、目標みたいに考えている人がとても多いです。
私は神様イコール教会ではないし、信仰生活イコール教会生活と思っていません。
礼拝は神様を信頼して、信じて、神の言葉に従って生きる事ですよね。
私はそう思っています。そう信じています。
それなのに、多くのクリスチャンたちがなぜ「教会に戻れることイコール神様の所に戻ること」のように考えているんでしょうか?
 村上先生  神様と教会を一つにしているからです。
教会がどんなにおかしくなったり、異端になったりして、人々を惑わしてきたか、歴史から学ばないで、教会を絶対肯定化する人が間違いを犯します。
教会は罪深い歴史を持っています。それを聖書の教えによって正しくしていこうと取り組んでいる人人の集まりを神は助けてくださるのです。
おかしな教会へ行けと言う方が間違っています。
吟味しない信仰生活は堕落していきます。
 
 注1  教会に行けない事で罪責感や不安や恐怖心を持っている人  
なぜ教会に行けない事でカルト化被害者は、罪責感や不安、恐怖心を感じるのでしょうか?
カルト化教会では、日曜の礼拝会、祈祷会や聖書勉強会などの教会の集会にはぜったい参加、厳守する事が義務付けられていたからです。
それができなければ「不信仰」と虐待的牧師や信徒たちから攻められます。セルリーダーにも叱責されます。
「祝福されない。」とも言われます。
私が通っていたカルト化教会では、「携挙は日曜日に礼拝中にあるので、日曜礼拝に休んでいたときに携挙があったら、その人は地上で取り残される。
そして取り残された人は救われないし、地上で艱難に遭う。」と教えられていました。
つまり地上で生きている間艱難で苦しみ、神に見捨てられ、地獄行きという意味です。
その事は、いろんな聖書箇所をこじつけて、曲解して教え込まれるから恐怖そのものでした。
38度以上の熱があっても、台風で暴風警報が出ていても、礼拝会には行きました。
インフルエンザでも来ていた人がいました。
がんが転移していてモルヒネを使っているような状態だったのに、礼拝出席のため、車を運転していて助手席側がめちゃめちゃになるぐらいの事故を起してしまった人もいました。
虐待的牧師はそれを模範的、素晴らしいとみんなの前で褒めていました。
そのように恐怖心で従わせ、非常識を信仰的と教え込み、信徒の人権を奪うのがカルト化教会です
 
 注2   カルト化牧師を庇う発言
カルト化教会を脱会して、その事を他教会の牧師やクリスチャンに話すと、
「牧師も人間だから弱さはある。だから赦して牧師のために祈らなければいけない。」とよく言われます。
これは私も言われました。
問題が起きても信徒が集団脱会しても悔い改めず、信徒たちに虐待を続けている牧師、心からの謝罪も償いもない虐待的牧師をなぜ赦さなければならないのでしょうか?
「赦す」とは罪を見逃して虐待があっても「多めに見よ。」という事でしょうか?
教会でどんな被害があり、どんな教えをされ、どんな虐待を受けたのか聞いていなら、被害者に「赦しなさい」と言う。
これはとても多い2次被害です。

 注3    被害を軽く見る発言
「こんな問題はどの教会でもある。」
これは私が脱会後、実際言われた言葉です。
信仰の虐待はそれほどの事ではないという意味でしょうか?もしそうだったら、その人の信仰と人権感覚を疑います。
「自殺者はどの教会でもある。」
これは沖縄キリスト福音センター(現 美浜教会)の脱会者が沖縄のある教会の牧師から直接言われた言葉です。
人の命をなんと軽く考えているのでしょうね。こういうのが牧師だなんて情けないし腹立たしいです。
 

私が書いたことと関連する記事をいくつか紹介します。
教会のカルト化問題 : 村上 密 Blog https://maranatha.exblog.jp/16033128/

I don't know who I am: カルト被害者を襲う第二の虐待 http://fuminaru.blogspot.jp/2015/09/blog-post_16.html
 

I don't know who I am
http://fuminaru.blogspot.jp/

私がとても気にいっていて、記事を楽しみに読んでいるブログです。
このブログ、カルト化教会の被害者や被害者のご家族の方、今教会に通っているけれどとてもつらくてどうしたらよいかと悩んでいる方、そして正統的と言われている教会の方々にもお勧めです。
「きまじめくんのクリスチャン生活」という章節、ぜひ読んでいただきたいです。
私のブログで記事紹介させていただくにあたり、コメントしようと思ったのですが、コメント記入の仕方がわからなかったので、コメント送れずに紹介させていただきました。
応援しています。

  


Posted by スイトピー at 13:192次被害