2017年01月27日

医療否定する牧師たち

☆  星の子キリスト福音教会元牧師 小河敬太さん(現 神学生)の記事を再掲載します。
 

 2013年12月20日 記
病が治らなかったり、身の回りに不幸が続くと「あなたの不信仰だ」「祈りが足らないのだ」と教える牧師が沖縄には存在する。
もうすでに聖書の教えからずれている。
なぜならどれだけ祈りどれだけ信じれば癒され、目の前の暗い現実は打破されるのか?
私達の持っている信じる強さによって出来事が起こるのだろうか?
その強さの境界線はどこなのだろうか?
この教えは弱っている方々を責めたて、脅迫し傷つけているだけである。

聖書は祈れず、不信仰な者をも救う書物である。
パウロにもどうしても直したい病があった。
(この病が治ればどれほど多くの働きが出来るだろうか。神と人のお役にたてるだろうか)とパウロも悩んだに違いない。
しかし、3度祈っても癒されなれなかった。
ところがこの病を通してパウロがガラテヤにしばらく滞在する事になりガラテヤの教会が建つことになった。
医者のルカもパウロと同行しなければならなかった。
その事でパウロから教えられ使徒の働きを書くことができた。
神は私達が不幸だと思うような中にも働いておられる。
私達の身の回りに起こってくる悲しい出来事は不信仰だからでも祈らないからでもない。
どのような出来事の中でも神は私達を見捨てているのではない。
愛しぬき、導いて下さる。

そして神は医者の手を通しても癒しをなさる。
医療を否定して超自然的な癒しのみで直させようと指導し実際に肺がなくなり、失明し、命を落とした方々がおられる。恐ろしい事である。
医者との出会いを与える神の導きを牧師が止めている事にもなる。
牧師であるならば適切な病院や医師を紹介すべきである。
取り返しのつかない事になる。
  


Posted by スイトピー at 22:08小河敬太さんの記事

2017年01月21日

牧師と信徒

一昨日のブログに私と村上先生のメールでのやりとりを掲載しました。「牧師とは特別な人なのか?」というテーマでした。
私へのメールで村上先生は、「牧師は信徒に支えられてその働きをしている。
牧師は支えている信徒に感謝しながら、その職務を果たしている。」と書いてくださっていました。
牧師は信徒に支えられてその働きをしている。牧師は信徒に感謝している。この二つの言葉に私はとても驚き、感動しました。
カルト化教会の牧師はぜったい口にしない言葉だし、カルトじゃない教会の牧師だってそういう事を言うのは聞いた事がなかったからです。
カルト牧師の言ってる事と逆で驚きました。
そしてまたまた疑問がわいたので、村上先生にメールを送りました。
下記は私と村上先生のやりとりです。
* は、村上先生の答えです。
 
 
 「『信徒が牧師を支えている』って、どのようにして支えているのですか?
教会から支払われる給与ですか? 牧師のためにお祈りすることもあるから、お祈りもですね。」
*牧師の説教を育てるのは聴衆である。
聞き手がいるので、しっかり伝えようとして励みます。
献金はなくても、働いて得る牧師もいます。
教会は牧師だけでは運営できません。支える人、使える人がいてできます。
祈られている、そのことが支えでもあります。
祈りあえる関係がなかったら、それは教会ではありません。
「こんな質問していいのか迷いますが、村上先生が『信徒に支えられているなぁ』って思うときは、どんなときですか?
どんなことですか?」
*私はクリスチャンとノンクリスチャンの相談で育てられました。
大変難しい問題を持ちかけられ、一緒に解決のために取り組んで成長しました。
何もない牧会が私を成長させたのではなく、起きる問題が成長を促したのです。
いっしょに一生懸命取り組み人々に励まされて歩んできました。
牧師と信徒はお互い様です。
 

私は10年前、初めて村上先生のカウンセリングを受けました。その時初めて教えていただいたのは、「牧師と信徒は神様の前で平等だ。」ということでした。
私、こんな事を聞いたのは初めてで、とても驚いたのを覚えています。
最近カルト化教会を脱会した人、今もカルト化教会の中にいて悩み苦しみ、脱会を迷っている人、脱会後しばらく経っているけど、まだカウンセリングは受けてない人。カルト化教会で教え込まれた事からまだ抜け切れてない人。
そんな人たちが私と村上先生のメールのやりとりのこの記事を見たら、きっとすごく驚く内容なんでしょう。
カルト化教会脱会後しばらくは、私は「牧師」と話すのが怖くて、村上先生と話すのにも勇気がいりました(笑)。
だから今回のやりとりのように、「村上先生が『信徒に支えられているなぁ』って思うときはどんなときですか?」と聞く事なんて、想像もできなかったし、そんな疑問すらわいてきませんでした。
もしかしたら、牧師の中には私が村上先生にしたような質問をしたら、むっとしたり、怒る牧師もいるかもね(笑)。
いや、私だっていくらなんでもどの牧師にも村上先生に対するようには気軽に何でも安心して質問できません。
村上先生と出会って5月で10年になるんだけど、その間ずっと変わらず、私の疑問や質問にいつも丁寧に誠実にわかりやすく答えてくださってること、教えてくださっていること、本当にありがたいなと思ってます。
  


Posted by スイトピー at 17:53学んだ事、考えた事

2017年01月19日

「牧師」って特別な人?

カルト化教会では、牧師を特別な存在として教え込みます。
神に一番近い存在として、いや、神そのものであるかのような気持ちをさえいだかせます。
カルト化牧師は、信徒の心をキリストにではなく、牧師に向けさせ、依存させていきます。
脱会後も被害者は、「牧師は特別な人なのではないだろうか?」という思い、感覚が中々抜けません。
カウンセリングや学びを通して、少しずつ思いや考え方、感じ方が変化していきます。
私の場合もカルト化教会を脱会して10年になりますが、一度に全部を理解できるようになったのではありませんでした。
少しずつ少しずつ間違いに気がつき、正しい事がわかってきました。
間違いに気付いたり、正しい事がわかってくるのにも、段階があると感じています。
下記は最近の私と村上先生のメールのやりとりです。
「牧師は特別な人なのか?」という事に対しての質問と答えが対話形式になっているので、理解しやすいだろうと思い、ブログで掲載する事にしました。
「 」の中が私の質問、言葉です。
@ が村上先生からの答えです。


「今日、カイロスの会で『牧師』について話題になりましたね。
村上先生は『牧師は神の代理人ではなく、機能的役割りだ』と
おっしゃいました。
『牧師も信徒と同じ教会員』とおっしゃいました。
私はそれを聞いていて、『それは会社で課長、係長、部長が
いるように、それと同じ牧師も機能的役割りであって、
特別な人ではない。』と思いました。
そしてそう発言しました。
私の考え方は、これでいいと思うのですが…。」
*会社を運営していくために、それぞれ任務を打っているわけです。
特別な人ではありません。

「村上先生は私の最初のカウンセリングで、
『牧師も信徒も神様の前には平等だ。」と
おっしゃっていました。」
*平等だから、牧師は特別ではないのです。
万民祭司だから、牧師だけ特別というわけではないのです。
牧師は、教会で、ゆだねられた働き(信徒の牧会、宣教、運営)をします。

「『万民祭司』という事はわかります。
私が疑問に思ったのは、牧師はゆだねられた働き(信徒の牧会、宣教、運営)が
あるから、とくに牧会ですが、それをしているから、
だから『牧師は特別なのではないだろうか?』という思いがあります。

*聖書に牧師という職は1回しかでてきません。伝道師はもっと出てきます。
使徒や預言者も出てきます。
どうして、牧会が特別でしょうか。牧会は牧師だけではなく、日曜学校の先生もしています。
役員もその働きをしています。信徒も牧会をそのようなことがを使わないでしています。
親身に関わることは牧会と同じです。

「そのような考えになってしまうんです。
だって、神様から選ばれて、牧師になったんですよね?」

*選ばれたから、それはクリスチャンのすべてが選ばれて、それぞれのたまものに応じて神に奉仕しています。

「牧会って教会で中心的な働きだし、神様からゆだねられているから
できるんですよね?
だから、やっぱり『牧師は特別』っていう
気がするんですけど…。

*学校の先生を特別視する時代がありました。
西欧では王様を特別視する時代がありました。
王は神に選ばれて権威を授けられているという説です。王権神授説と言います。
特別視する考えが、特定な人を、特別と思うのです。それならば、平等はないことになります。
どれだけ、特別視する牧師が問題を起こしてきたかです。そして、牧師という呼び方は、宗教改革後です。
使徒時代から受け継がれてきた言葉ではありません。概念が違います。

「私が脱会したカルト化教会では、牧師は羊飼いで、群れを牧する特別な働きをゆだねられていて、
霊の親でもあると言っていました。」

*そのようなことは聖書にありません。

「『霊の親』は間違いとわかっています。
『特別』というのがどういうのかというと、牧師はみこころや
神様の計画やビジョンが示されるから、
それに従って、信徒を導く、と言っていました。」

*そうやって特別視するように仕向けているのです。
神の計画はクリスチャンにもあります。ビジョンもそうです。

「『みこころがわかる」っていうのも、間違いと今はわかります。
あれは『みこころ』じゃなくて、カルト牧師の勝手な思い込み、
あるいは妄想だと思います。
そうは思うし、そこまで理解してはいますが、
やっぱり『牧会する人は特別、牧師は特別なんじゃないか』って
思いがまだ私の中にあります。」

*牧師は狭義では、教会を任されている人です。
その牧師を教えた人がいます。教会を持たない神学校の教師です。
スイトピーさんの考えだと、牧師を育てたから、教師はもっと偉いことになります。
その教師を生んだお母さんはもっと偉いことになります。
その家族は神に選ばれた特別な家族となります。
特別視するとこのように思考が展開します。 際限がありません。

「自分が信じている事をうまく説明できないのですが…。
私が信じている事って間違っているんでしょうか。
教えてください。」
*その職を忠実に牧師が果たすなら敬意を払うことです。
それは特別視ではありません。
牧師は信徒に支えられてその職ができます。
支えている信徒に感謝しながら、牧師はその職務を果たすのです。
信徒を低くみる歴史があったのです。平信徒という言葉です。聖書にありません。
教会が歴史の中で作り上げた言葉です。万民祭司からは出てこない言葉です。


  


Posted by スイトピー at 00:05学んだ事、考えた事

2017年01月07日

カイロスの会セミナー 「自死について」

カイロスの会セミナー


「自死について」


 2017年5月27日、カイロスの会でセミナーの講師を務めることになった。
テーマは「自死について」である。
以前、「自殺は罪ですか」と題して、ブログに記事を掲載した。
これは、自死を罪とみなす今までの見解を覆す内容で、大きな反響があった。
カルト化教会の問題を扱うようになって、自死をよく聞くようになった。大きなストレスや深い罪悪感を植え付けられていることが背景にある。
今回のセミナーでは、カルト化教会における自死の原因と予防について詳しく語る予定である。
参考までに、「自殺は罪ですか」のブログの記事を掲載した。
 

自殺は罪ですか

 自殺は罪であるという教えに多くの人が苦しんでいる。本当に罪だろうか。
罪だと言う根拠にモーセの十戒が引用されるが、これは自殺を罪とする根拠にはならない。
これは「殺してはならない。」(出エジプト20:13)であって、自殺してはならないではない。
殺してはならないと命じる神が、イスラエルの民を滅ぼそうとする民を滅ぼせと命じられることもある。
こういうわけで、何が何でも殺してはならないわけではない。これはイスラエル共同体の中で、殺しがあってはならないとの戒めで、これを破る人は死罪になる。
死刑を実行する人は罪に定められない。自殺が罪と明確に書いてある箇所は聖書の中にない。
これはキリスト教の歴史の中で罪とされてきたもので、これは改めなければならないものである。
自殺してはならないを、キリスト教の教えとして広く伝えることになったのは、三浦綾子さんの『細川ガラシャ夫人』である。
ガラシャ夫人は自殺は罪なので、家臣に自分を殺させている。これを美談にしている。
死を選択しなければならない状況で、自殺できないので他人に自分を殺させる。もし自殺が罪なら、殺させることも罪である。
何事も置かれた状況によるのであって、一律に自殺を罪とする考え方は誤っている。
法律は自殺を罪としていない。聖書の中でも自殺を罪としていない。
自殺を罪とするのは、習慣的な考え方である。この習慣が自殺した人の遺族を苦しめる原因になっている。
作られた罪意識が、人を苦しめるなら、私たちはそれを変えていかなければならない。
鬱の回復期の自殺を罪と見做すのは酷である。
自死を選択するほどに追い詰められた状況、原因にも目を向けるべきだ。よって、私は自殺を罪とするキリスト教的な教えを聖書の教えと違うものと見做している。
 


●講師 村上 密 牧師

●日時 2017年5月27日(土) 13:30~16:00

●場所 沖縄船員会館 第二会議室(那覇市前島3-25-50 TEL 098-868-2775)

 ※お車でお越しの方は、とまりんの駐車場をご利用ください。

●参加料 1000円

●お問合せ newlife0102@hotmail.com 090-9782-5892(新垣)
  


Posted by スイトピー at 23:07カイロスの会からのお知らせ