2017年04月09日

ザアカイの回心

☆ 教会の週報に載っている礼拝説教の要約を掲載します。
 

ザアカイの回心
                              牧師 東風平巌
ザアカイは巷で有名な徴税人(取税人)でした。
当時徴税人は罪人だと言われていましたが、それはローマ帝国の手先として強引な手段で税金を巻き上げるばかりか、必要以上の取り立てをして私腹を肥やし不評を買っていたからでした。
その徴税人の親分ともいえるザアカイがイエス様との出会いによって、その人生が180度変えられます。
彼は恐らく遊んで暮らせるだけの財産を貯えていたものと思われますが、心には満たされないものがあったに違いありません。
恐らく友人はおらず、社会の嫌われ者で孤独だったでしょう。
そんな人にイエス様は声をかけられたのです。
イエス様が罪人の代表であるザアカイの家に行き食事をすることになったのを見聞きし、人々は驚きます。
そしてイエス様に対しても不信の目を向けます。
「あの人は罪深い男のところに行って・・」というつぶやきは明らかに猜疑心をもってイエスを見ています。
しかし、イエスは失われた人を探し出すため、罪びとを救うために来られました。
そしてその通り、ザアカイは心を入れ替え、今までだまし取っていた分を4倍にして返し、貧しい人に財産の半分を与える約束までします。
イエス様と出会わなかったら、彼は孤独で嫌われ者のままで人生を終えていたでしょう。
私たちの人生に喜びと光を与えてくださるイエス様と共に今月も歩んでいきましょう。

  


Posted by スイトピー at 21:13礼拝説教の要約

2017年04月02日

神を信頼して神を見上げること

村上先生の3月28日のブログに「試練と備えと祝福」という記事があります。
この記事では創世記22章のアブラハムがイサクを捧げた箇所から試練についての説明が書かれています。
 

試練と備えと祝福 : 村上 密 Blog http://maranatha.exblog.jp/25649713/
 

記事を私のブログで紹介します。

 
(「村上密ブログ」より)
試練と備えと祝福

試練の中にいる方へ、試練だと思って過ごすより、試練の意味を知って過ごすことが大切である。試練とは、人の心の中の奥に隠れたているものがなんであるかを調べるために試し、迫害や苦難によって人のこころを練ることを意味している。そして、試練を通して試し、練られた人には、備えと祝福が待っている。

聖書で最も有名な試練の個所は、創世記の22章である。「神はアブラハムを試練に会わせられた。」(1)試練の内容は「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(2)アブラハムの心の中にある隠れたものがなんであるか。それは「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(12)である。神は、アブラハムがイサクを愛していることを知っておられる。イサクを愛することは悪いことではない。神はアブラハムのこころを知られた。それは、アブラハムが神を恐れていることである。この恐れは恐怖ではない。神を恐れ敬うこころである。そして、神のためにはなにものも惜しまないこころである。

イエスは教えられた。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも、息子や娘を愛する者は、わたしにふさわし者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについてこない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:37~39)聖書には父と母を敬えとある。父母を愛することは悪いことではない。むしろ、こころから愛することが大切である。しかし、イエスはそれ以上に人がイエスご自身を愛し敬うことを求めておられる。イエスの弟子にふさわしい心構えは、人が最も大切にしている父と母、息子と娘、自分のいのちに勝って、イエスに従ってくる人である。ここは愛の否定ではなく、愛の優先を教えているところである。自分のいのちさえ惜しまないでイエスに従ってくる者が永遠のいのちを得るとの教えである。

アブラハムは神が「わたしが、あなたを多くの国民の父とする」(創世16:5)と言われた選びの器である。神は、その選びにふさわしい人にするために、アブラハムを練られた。試練を通して、アブラハムが神を恐れることがわかった。それゆえ神は、イサクの代わりに、雄羊を備えられた。試練の後には備えがある。「アブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、『主の山の山の上には備えがある。』と言い伝えられている。」(創世22:14)アブラハムが「ひとり子を惜しまなかった」(16)ので、神はアブラハムを祝福(17、18)された。「あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(18節)神はかつてアブラハムに言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」(創世17:1)私たちはこのアブラハムの神を私たちの神として信仰生活を送っている。私たちもまた、アブラハムの子であるならばアブラハムの試練を経験する。それは、何を第一にするかの試練である。自分を第一にして生きるか。神を第一にして生きるか。神を第一にして生きるなら、何処にいても「アドナイ・イルエ」を経験する。そして、神はあなたを祝福される。
 

アブラハムがイサクヲ捧げる箇所も、イエス様の教えのマタイ10章37-39節も私にとっては、苦手な、難しい、あまり好きではない箇所でした。
他のカルト化教会脱会者も同じような思いを持っておられる方が多いと思います。
村上先生のこの記事について、私はメールで質問しました。その内容を下に貼り付けます。
 

(私) 私が脱会したカルト化教会では、ここは、「人が神様よりも他のもの(あるいは人)を大切にしていたら、神はそれを取り上げられます。」と説教していました。
 (村上先生) そのような誤った説教が多いです。イサクは取り上げられていません。
イサクより神様を大事にしていることがわかったので、神様はアブラハムもイサクも祝福されました。神様を第一にする信仰がイサクにも受け継がれていきました。

 (私) この箇所は、「神を第1にして生き、神を畏れ敬う事」と「神は供えていてくださる」という事を教えているのですよね。
 (村上先生) そうです。

 (私) 神を第1にするとは、教会活動を一生懸命して、たくさん奉仕するとか、たくさん献金するという意味でなくて、神様のみ言葉に従って生きる事を言っているのですよね。
 (村上先生) そうです。
 (私) 信仰生活の事ですよね。
 (村上先生) そうです。

 

カルト化教会ではどこでもそうだと思うけれど、試練の意味をその人のせいにする事がほとんどです。
「あなたの祈りが足りないから。」、「あなたの信仰が足りないから。」、「捧げていないから。」、「隠れた罪があるから。」。「神を第1にしていないから。」。
しかし、それは因果応報的な考え方で聖書の教えからずれています。
その考え方から抜けるのが、また大変なんだけど…。
メールで回答をいただいた後、さらに質問したい事が出てきたのと、心配にもなったので村上先生に電話して質問しました。
私は試練を神からの罰とは思ってないし、カルト化教会にいた頃のように、自分の心の中の罪を一つずつ数えて祈る事はしなくなったけど(神の赦しと救いがわかったから、信じているから)。
でも神様はその人の心を見られて、備えてくださり、祝福されるなら、私は自信がありません。
私は短所や欠点があるし、間違う事も多いから…。神様が心を見て認めてくださるような人間じゃないから…。
自分でも神様に従って生きようと思ってるし、欠点もなくしたいと思って努力してるけどうまくいかないです。
だから自分が神様に祝福されるって思えない…。
そう話しました。
村上先生は、「欠点、短所は誰にでもある。ない人なんていない。
大切なのは神様に信頼して生きる事です。」と教えてくださいました。
「自分が欠点や短所があっても、間違った事があっても、それでも神様を信じ続ける事、そのような時でも神様を信頼して、神様を見上げる事が大切という事ですか?それでいいのでしょうか?」
「そうです。それでいいですよ。」
 

この対話でほっとしました。
カルト化教会では信徒が自分で自分を責めるように教え込むし、攻めるために聖書の言葉を使うから、神様を厳しくて怖い方のように思ってしまうけど、そうではないんですよね。
その事がまた一つ理解できました。
このようにして聖書の苦手な箇所が克服され、聖書が私を励まし、支え、教えてくれるものだという事をわかっていく事が嬉しいです。
  


Posted by スイトピー at 13:42信仰生活