2009年03月09日

奪われていた自由意思

2009/3/15 0:36
「奪われていた自由意志」  聖書の勉強
 教会に行くのがとても楽しみになってきました。
礼拝後の聖書の学びも楽しくなってきました。
カルト化教会にいた頃は、教会に行く事は義務感から行っていた気持ちが大きかったし、
弟子訓練セミナーは、「皆受けるから」、「受けないと祝福がないから」、「先生(虐待的牧師)が受けるようにと言ったから」受けました。

しかし、今は違います。
礼拝の日が待ち遠しい。
聖書の学びが楽しいし、一つでも気づく事、わかる事が嬉しいのです。

教会は(ここが私の居場所かもしれない。)と思えるようになってきたし、何よりも、安心感が得られるようになってきました。
(ここは安心な所。)と少しずつ認識できるようになってきたのか、今日はフラッシュバックは起りませんでした。
引き金になるような言葉を聞かなかった、というのもよかったけど…。
少し過呼吸になって、咳き込み苦しくなったけど、原因がわかりません。
でも、それでもいいや、と思えたほど、今日は落ち着いていました。

今日は、「人間とは…?」という学びでした。
人間は神様が創造されました。
神様の性質を表す者として、交わりを持つ存在として作られました。
また、自由意志を持つ存在として作られました。
そして、永遠を思う者として作られました。

しかし、アダムとエバが善悪の木の実を食べたために、人間に罪が入り、人間関係の中に、憎しみと争いが起きるようになりました。
また、人間の自由が罪を行う事に使われていきました。
そのような人間を神は救おうとして、イエス様をこの地上に送ってくださり、十字架につけてくださったのです。

今日の学びで私がとくに心引かれたのは、「自由意志が与えられていた」という話でした。
人間には最初から自由意志が与えられていたのです。
自分で考え、判断し、決める自由。
それを奪っていたのがカルト化教会の教えとマインドコントロールでした。
虐待的牧師は信徒をマインドコントロールして、神様が元々くださっていた「自由意志」を奪っていたのです。

今日学んだ事で、自分の事を当てはめて考えてみました。
私も神の形(性質)を持ったもの、すなわち人との交わりの喜びに生きる者として作られた事。
また、自由意志を持った存在として作られた事。
そして、永遠を思い、永遠の存在(神様)を思う心が与えられている事。
しかし、私にも罪がある事。

だけど、主はそのような私をまるごと愛してくれているのかも…。
だから、イエス様を十字架につけて、蘇らせてくださったのかも…。
ここまでは考える事ができました。
次回は、「救い」についての学びです。
楽しみ!



同じカテゴリー(カルト後遺症とリハビリ)の記事
時が経って…
時が経って…(2024-02-23 15:08)

決定権を取り戻す
決定権を取り戻す(2018-11-22 22:41)